★ 子どもの「問題」をどう観るのか?


 普通、順調に事が進まないこと、標準的な状態から逸脱する現象、そのことによって本人、又は周囲のものが困ったり、悩まされたりすること、そんな事象のことを、一般に「問題」と呼んでいます。

 

このような意味で、学校における子どもの「問題」を眺めてみると、大変幅広い。明らかに「問題」と見える、不登校、いじめ、暴力、非行、不純異性交遊、授業エスケープなどの顕著な行動から、時々欠席する、保健室登校、学業不振、体調不調、性格的に弱い、友達が少ない、忘れ物が多い、集中力がない等々、目立たない、よく観察しないと気づかない状態まで、「問題」と感じる現象は多岐にわたり、その大小や深刻度はさまざまです。現代の子ども世相としては、昔よりも「問題」が拡大し、深刻化し、複雑化していて、その対応、解決も困難 化しているというのが、一般的な見方です。

 

 このように多様化した子どもの「問題」に対して、学校現場も、家庭も、地域社会も満足に対処しきれていないという、現状があります。その理由として、小学校高学年から中学、高校と年齢が進んで、「問題」として深刻化、顕在化した段階になって、初めて対処しようとするケースが多いことも、対処困難の要因といえます。問題が顕在化するには、必ず以前の潜在的な段階があり、小さな合図(サイン)が多種多様、無数に発信されていたはずです。それを、家庭も学校も、見逃している、軽視している、気づかないでいる、そんな状態を長く続けてきたのです。


もっと昔には、早目の対処が自然となされていた、たくさんの人の関わりの中で、知らず知らずに軌道修正してもらっていた、それが今の時代なくなりました。何故か、「いかに生きるか」ということに関して「枠」が無くなったからです。いわゆる「価値観の喪失・不在」です。確固とした「生きる指針」が無いということは、次代を担う子どもを、我が子を「どう育てるか」という目標・方向性がないことになります。


いわば、その時々の気分や雰囲気で、気ままに子どもに関わっている。なにかしら、現代風の「標準」らしいものはある。しかし、人間本来それぞれに極めてユニーク(個性的)な片寄りを持った存在です。標準から外れて当たり前、そして四苦八苦し、試行錯誤して、順調に行かなくて、当然なのです。ところが、そうした「つらい状況」を能動的に、積極的に、自ら対処するということを、学んでいない子どもが多い。標準的な、心地良い流れに乗って、受身で、身をまかせ、自己の思考力・判断力をフルに発揮することもなく、熟慮を要する難しい状況からは、さっさと身を引いています。結局、人生において必然的な種々の選択、決断、実行といった場面において、能動性、積極性を発揮できず、自分では何もできない、難局を乗り切れない、弱い人間ばかりが大量発生しているという現状があります。

 

このような青少年たちの現状は、とりもなおさず、現代の大人の状況そのまま、「合わせ鏡」といえます。私たち大人は、自らの生きる姿勢を問い直すところから始めないと、「問題」の本当の解決はないことを、先ず腹入れする必要があるようです。何が「善」で何が「悪」か、「生きる上で何を大切にすべきか」等々、それぞれの立場で、父として、母として、教師として、ひとりの大人として、一本の柱、中心となる考え方の軸を持つべきです。良くも悪くも、大人は子どものモデルです。まねて、模倣して子どもは成長するのです。

 

 現代人が誤解しているのは、子どもは勝手に自分で育つ、自動的に伸びてゆく、自己完結的な成長力をもっている、といった理想論が真実のように思われている点です。人間は、必ず人と人との間で育つ、人間関係の中で育つのです、他者との精神的な繋がりの中で相互に影響を及ぼしあいながら、人は変化・発展・成長していくのです。それを忘れて、何もしないでも、子どもは勝手に育っていると思う親が意外と多いのにびっくりします。

 

確かに、衣食住といった、最低限の物質的な世話は誰もがしています。しかし、それ以上の精神的な交流の薄い「傍観者」のような態度の親が意外と多い。ことさら無視したり、冷たくしている訳ではないが、親子の親密な感情交流がないのです。親には「自分の生活」が先にあり、子どもには「子どもの生活」が別個にあるという態度なのです。干渉しないし、子どもに煩わされたくない、という考え方です。「放任」しつつ「見守る」という態度はなく、好き勝手にさせて、全く何も見ていません。

 

もし、同様に鉢植えの花を育てたら、水(愛情)が足りずに、とっくに枯れている状態です。子どもの「こころ」が枯れてきて、救いを求めていることに気づかない親が多すぎます。外側の目立った行動や成績ばかり、見ています。これとは逆に、過剰に水(愛情というより、不安と心配)を与えすぎて、根腐れを起こしたようなひ弱な子、窒息状態のような無気力な子も少なくありません。

 

いずれにせよ、子どもをしっかり見ていない。「親」の字義は、立ち木の上に立って、高いところからしっかり子どもを見守るということです。現代の親は、自分自身のことが先で、子どもをしっかり見ていない、心を使ってしっかり観ていない。子どもの生活や心情を「観る」ための「自分」、大人としての「生き方の芯」「価値観」「枠組み」を持っていない。そうした親であれば、起こってきた煩わしい「問題」は、子どもが抱える「問題」であって、本人自身で変わらなければ、私(親)にはどうしようもない、手も足も出ない、何が私にできるというのか、と早々に行き詰ってお手上げ状態になってしまいます。

 

 そうでしょうか?子どもの「問題」とは、子どもの中に在るものでしょうか? いや、そうではない、「問題」は、あなたと子どもの「間(あいだ)」にあるのです。もっといえば、お互いに「共同制作」したものが「問題」なのです。起こっている現象や出来事、「そのこと」を「問題」と名づけたから、つらく苦しく不愉快な「問題」になっているのです。そう評価したのは、あなたと子どもです。

 

 「問題」という「そのこと」は他に名づけようがないのでしょうか? 「問題」は、トラブルでもありますが、クエスチョンでもあります。「課題」とも言い換えられます。「課題」であれば、何か新たなものが生まれる、発見できる「チャンス(機会)」と見ることもできます。とすれば、否定されるばかりの事ではなくて、何か「意味のある」「必要なこと」かもしれないと、逆転の発想をすることもできます。

 

そうすると、「不安」や「心配」などばかりではなく、この苦境、難局を乗り越えていこうという「勇気」や「意欲」もわいてきます。もし、そうして、結果的に何か成果を得ることになれば、当初は、否定的にしか感じなかった事象に対して、あるいは「感謝」や「恩」を抱くことになるのかもしれません。

 

 ですから、「問題」と感じるのは、ひとつの「幻想」だともいえます。どういう「幻想」を抱くほうが、人生において発展的で、幸せもたらすものなのか、もっと熟慮する必要があります。人生を、どう考えるのか。この世の中の吉凶禍福は、一体どんな仕組みで起こっているのか? 偶然なのか必然なのか? 何か、もっと根源的なものがあるのか? そうした物の見方、考え方の違いによって、日々の生活あるいは人生が、何か変貌するというのか? そんな問いを抱いて、私たちは、もっと人生の先達者の意見や体験談などを聞いて視野を拡げる必要があるのではないでしょうか。